初級『啓蒙とは何か』カント【オンライン哲学読書会】レビュー

参加者様のリアクションに対し、C○○というかたちで勝西先生のコメントが対応しています。

・リアクション

カントと啓蒙思想の説明ありがとうございました。哲学でいう批判が分析という意味だというのは目からうろこでしたC1。(みんな知っていることなのかな?)でも哲学がとっつきづらいのは、このような用語が、一般の意味とは違うところが一つの要因ではないか、意訳して説明をしてもらえれば難しくはないのに、もったいないと思いますC2。またカントもニーチェのようにキリスト教からの解放のような時代背景の人だったんですね。(調べてみるとカントのほうが100年位早いようですが)C3 自分で考える、自分の意見とはのテーマですが、まず疑問なのがこれは哲学の中では答えがでているのでしょうか?C4 表面的にはどう定義するかの問題になりますし、分析しようとすると脳科学的な認識の分野になってくるのではないでしょうかC5。私はこの辺の認識に興味をもっていまして、自分の研究テーマでもあります。いろいろな考え方ができると思うのですが、まず日常的には今の社会に生きていて、ほとんどの人の世間話はメディアなどで出てきたことを繰り返しているだけで、それをネタに不安や喜びなどを共有しているだけのような気がします。私のように自分の考えをいうと周りはどう対応していいのか困惑しているのをみていると、だれもそのようなことはその場で求めていないようですし(みんな求めているのは解決ではなく、コミュニケーションであって)、みんなそれが分かっているので自分の考えはあっても言わないようにしているようです。という点では、私が思っている以上にみんな自分独自の考えは必要とされていない中で表には出てこないで、変なところででてきたものは無視されているという状態のような気がしますC6。昨日のセミナーででてきた子供の教育で独自性を重要視するというのは、教育の目標であって子供の意見を否定はしないけど、かといってそれを考えるための理論の構成方法を教えてはいないのではないでしょうか?C7ということで、日常社会の中ではそれぞれの人の自分の考えはほとんど受け売りの情報で、独自性はないに等しいか表にはでてこないようですC8。ここで、少しさわり程度に分析的に考えてみると、自分が何かを見たり聞いたりして、それに対しての「感情」(共感でも憤りでも)は自分のものといえる。その「自分の感情」から派生する考えは自分のものといえる(と一旦してみる)。しかし、その派生する考えは、その人がどこかで聞いてきたもの、身に着けた知識、経験(これまでの見て感じてきた社会の反応や動きに対して、自分がとった行動に対する周りの反応など)などに基づく。また、自分のその時の立場・立ち位置、損得、周りとの関連などを考慮して、自分の意見が出てくる。あと、その人の性格、気分、体調、遺伝的性質などなど、このような複数の要素で、その人の意見が生み出される訳ですが、これらの要素それぞれのどれがその人独自のものかどうかは定義次第C9。その人の人生経験さえも、他から(社会や自然環境など)与えられたものと考えるか? 個人的にはこの段階での定義はどちらでもいいと思っていますC10。必要なのはさらにもっともっとその先の広く深い分析だと思いますC11。哲学ではどのようなアプローチで、どこまで考えられているかが興味ありますC12

・コメント2 質問者様へ

C1

英語のcritique、ドイツ語のKritikを日本語に翻訳したのが「批判」ですが、これは、ギリシア語のクリティケーが語源です。クリティケーとは分割することであり、分割することによってある概念の明確化を図る思考の働きを意味しています。ある概念に付着している余計なものや誤ってその概念と結びつけられたものを切り取り、関係のある要素だけをその概念の述語として結合することによって判断を形成し、そうすることによって、主語概念によって指示されているのは正真正銘しかじかのものであり、しかじかのものはこれとは関係ありませんということを明確にするのがクリティケーです。クリティケーの対象が能力の場合、その能力によってできることとできないことを仕分けします。その過程で、その能力の誤作動が明確にされます。錯視のメカニズムの解明などはその一例だと思います。また、クリティケーの対象が芸術作品の場合は、形成される判断はその作品の芸術的価値に対する判断となります。この場合は、クリティケー、critique、Kritikは「批評」と訳されます。

C2

仰っていることはその通りである反面、下手なりに明治・大正期に日本語にしておいてもらったおかげで日本語で考えることができるようになったというありがたさもあるのだと思います。ダンテが当時の学術用語であるラテン語ではなく、イタリア語(トスカーナ地方の方言)で『神曲』を書いたのは、人間の人間らしい営みは言語によって形成されると考えていたからであり、その言語は、自分たちがそれによって生きている言語、すなわち母語でなければならないと考えていたからでしょう。翻訳は、もともとの言語がもつ意味からの変容を生じさせますが、そうすることによって新たな知的発見がもたらされるということもあります。justiceが「正義」と訳されることによって、日本的な「正義」に対する考え方がjusticeに接続され、今まで西洋人が理解していたjusticeでは見落とされていた大事な要素に光が当たるかもしれません。実際に、西洋でも、ギリシア語からラテン語に、ラテン語からドイツ語に翻訳される過程で新たな知的発見がもたらされ、それが思想史上の知的遺産として受け継がれています。

それはともかく、仰っていることで行くと、ギリシア語のフィロ・ソフィア(知を愛し求めること)、英語のphilosophyを「哲学」と訳してしまったことは罪深いことだと言えるかもしれませんね。当時はすでに、諸科学が専門分化してしまっていましたから、哲学という特殊な学問を何か深遠なものとして了解していたのだと思います。そう考えると、致し方のない側面もあるようにも思われます。

ただ、「批判」は、悪い訳ではないと考えています。日本語でも「批判校訂版」(原本などと照らし合わせて精確に再現した版)などと言うときは、西洋語とほぼ同じ意味で用いられているからです。現在では、価値評価をするという意味から、あげつらうという意味や否定的評価をするという意味で「批判」という語が使われることが一般的になってしまったので、残念ながら意味の乖離が生じていますが、今さら他の訳語にするよりもこのままでいいと僕は考えています。例えば、「批判」には「分析」の行程が含まれますが、これを「分析」にしてしまうと「分析校訂版」と言わなければならなくなり、意味が通らなくなってしまいます。

C3

西洋の近世・近代は、キリスト教と封建制によって維持されていた社会システムからの脱却のプロセスとして理解できます。ルネサンス期の人文主義者は、人間の尊厳は、人間が神をかたどって、神に似せてつくられたという聖書由来の価値に基づくものである以上に、人間の自律的自由にあると考えるようになりましたが、このときから脱キリスト教への道は始まっています。ガリレイやデカルトは脱キリスト教の象徴的存在で、神なき時代であるモデルネ(モダンのラテン語)における「共通の正しさ」探しの道を開きました。近代の学問の特徴は、①人間の自律的な合理的思考能力の独立性を主張し、②数学・自然科学(特に物理学)に代表される科学的方法を確立し、③共時的な結びつきを支える新たな規範を確立しようとした(社会契約論)ことにあると思います。デカルトも、フランシス・ベーコンやホッブズも、大学を頂点とする当時の学校で教えていた中世キリスト教の学問(スコラ学)を古くさいものとして否定していました。

C4

特に経験科学の場合、ある程度合意された学説と、現在は論争状況にある問題をある程度識別できるのかもしれませんが、哲学の場合は、どんな問題であっても、そうしたかたちで「答え」を示すことができません。ですから、「哲学者によって言っていることが違う」、「哲学は学問ではない」という評価が出てくるのでしょう。哲学が学問かどうかは、それこそ「学問」をどう定義するかによるのでしょうが、さまざまな思想として現象する哲学の思考については少しばかり弁明しておく必要があると思います。

例えば、ジョセフ・ジャストロウという心理学者が取り上げたことで有名なウサギ・アヒルの絵(ウサギにもアヒルにも見える絵)は、①ウサギの絵だと言えますし、②アヒルの絵だとも、③(ウサギとかアヒルとかに限定できない、)謎のものとして見える絵だとも言えます。私たちは、①から③のどれが正しいのかと考え、ともすれば、③を「ウサギにもアヒルにも見える絵」と翻訳して、このような「中立的な」見方を「正しい」としてしまいますが、それが本当に正しい答えかどうかは怪しいのではないでしょうか。③の見方は①の見方と②の見方を両方含んでいるようにも思われますが、実は、①ウサギにしか見えないという見方と、②アヒルにしか見えないという見方を否定しています。①は、ウサギにしか見えないのであって、②のようにアヒルに見えたり、③のように謎のものと見えたり、どちらにも見えたりすることはありえないと主張することになるのです。私たちは、①から③のどの見方も成り立つと、そう見えている視角を離れて言葉で表現してわかったふうに気取ることもできますが、実はそれは④という別の新しい見方を作り出しただけかもしれません。その結果、さまざまな見方が、すなわち己の見方を真理として主張する見方の乱立状態が生じます。これが「哲学者によって言っていることが違う」ということの中身になると思います。ここまで行くと、そもそも同じものの別の見方という言い方がどういう意味で成り立つのか、という問題が立ち上がってきます。哲学においては、言葉を通して対話・論争をしている言語空間すなわち、言語によって定立されるテーマが対象(同じもの)として機能すると考えます。そして、その見方に沈潜してはじめて見えるものがあるかぎり、①か②か③のどれが正しいのかという決着方法をとることが難しくなるのです。逆に言いますと、だれもが自分が正しい答えを見出したのだと主張し、正当化しようとしています。ニーチェに言わせれば、正当化しようとすることは嘘をつこうとすることになりますが。

もちろん、これは哲学に対する一つの見方で、科学哲学のように、経験科学に近い方法をとる哲学的立場もありますので、一口に「哲学の中では…」と答えることができないことをお詫びします。

このような煙に巻いた答えだけでは失礼ですので、哲学に対する一つの見方を紹介することにしたいと思います。

「哲学とは、存在するもの一般の本質と根拠、人間の存在の意味を問い求める人間の営みにほかならない。そして、哲学がこのようにして明確なかたちで提起してくる問いは、もともと人間の日常的な生活や理解の中に不可避的に内包されていたものである。しかし、現実を理解しようと試みていく哲学の歩みは、以前に獲得された成果に新たな成果を付け加えるという直線的な進歩をたどっていくのではない。むしろ哲学は、常に過去の哲学の歴史を振り返りつつそこに育まれてきた問題意識や基礎概念を取り上げなおし、偉大な思想家たちとの批判的な対話を通じて真理に近づいていく、という仕方で歩んでいくのである。それゆえ、哲学史の遺産は、現在の思惟が足場とし続ける土台と言えよう。」(クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社ライブラリー、2000年、5ページ[クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代中世哲学史』(放送大学教育振興会、1991年)の改訂版])

C5

思考や思考内容及び認識・認知の問題を研究するうえで、現代では脳科学や人工知能研究を無視することはできません。あるいは、かなり主流の解析方法であると考えてもよいのでしょう。現在では、脳科学や人工知能研究の成果から、合理的思考や感情を再定義されてもいるのでしょう。現在「心の哲学」と呼ばれる領域の哲学研究者は、脳科学者と緊密に連携しながら研究している場合が多いです。関数化すると思考内容は値(グラフ上の位置価)として表現されるので、思考機能と思考内容の差はそれほど重大な差ではなくなるかもしれません。

しかしながら、脳科学の成果は、脳科学の黎明期に、合理的思考が伴う活動と常識的に=非脳科学的に理解されていた活動をやらせていたときに脳のどの部分が活性化するのかといったことをfMRIで特定するという地道な作業などを積み重ねた歴史の上に成り立っているのですから、仮説演繹的手法の積み重ねでできてきたと考えられると僕は理解しておりまして、だとすると、仮説設定における「合理的思考」や「感情」の概念は常識や哲学的理解を知らず知らずのうちに反映させてもいるのだと考えます。だとすると、日常的な生活や理解から問いを立ち上げて考察する哲学の成果も、思考や思考内容及び認識・認知の問題を研究するうえで無視できないのではないかと僕は考えています。

脳科学や人工知能研究には暗いので、飛んだ勘違いであったらごめんなさい。

C6

ここで示されている理解を僕も共有しています。「だよね」が共感共同体を構成する方向で機能するのに対して、「自分で考える」ことは、ソクラテスが死刑に処せられたことからもわかるように、社会を破壊する方向で機能します。だからこそ、カントも自分の考えを述べて意見を戦わせる場は、現実の社会生活が営まれている場面(理性が私的に使用される場面、ここには日常のコミュニケーションのシーンも含まれる)ではなくて、社会生活の外の真理探究の言論空間での対話の場面(理性が公的に使用される場面)に限定していました。

当日は、「自分で考える」とはどういうことかということを掘り下げて考えることができなかったので、そうすることにどういう意味があるのかを検討することはできなかったわけですが、僕が考えるには、共感共同体がどれだけ肥大化しようが、その社会には必ず矛盾があり、その矛盾によって被害を受ける人が必ず出てくるからではないでしょうか。つまり、その社会はどこか間違っているのであり、それを正すためには、社会にはその答えが用意されていないわけですから、言い換えれば、社会の側に答えがあったらそれが実践されているわけですから、自分でその課題に取り組み、解決を与える方向で努力するしかないからではないでしょうか。恐らく人間には最終的な答えを見つけ出すことはできないでしょうから、つねに自分で考え続けなければならないのでしょう。カントもそう考えていたと思います。

C7

子供の教育で独自性を重要視するためには、①みんなそれぞれ違っており、それでいいのだということを理解させる、②自分らしさを涵養する、③異なる個人間での関係を構築させる、という3つの柱が必要だと僕は考えています。

①では、違いが存在することにまずは気付かせ、その上で、どうしてみんな違っていいのかを考えさせる必要があります。②では、自分の身体的・精神的所与を受け入れさせ、それをどのようにして伸張(あるいは修正)するかということについて考えさせる必要があります。③では、自分らしさを他者との関係の中でどのように表現し、また逆に、他者の自分らしさの表現とどのようにかかわるのかを考えさせ、他人との距離の取り方を磨かせる必要があるでしょう。

意見を中心にこれらのことを整理しますと、①意見の違いが存在することにまずは気付かせ、その上で、どうしてみんな意見が違っていいのかを考えさせる必要があります。それは、その意見を持つことによって見える真実があるからだと考えます。それを知るためには、なぜその意見を持つに至ったのかという理由を探究しなければなりません。そして②自分の意見に気付かせ、それをどのようにして伸張(あるいは修正)するかということについて考えさせる必要があります。そして、自分がその意見を持つに至った理由を探究させ、その理由が取るに足らないものや屈折したもので本当の望みとはかけ離れたものではないかどうか突き詰めさせる必要があります。そして、③自分の意見を他者との関係の中でどのように表現し、また逆に、他者の意見とどのようにかかわるのかを考えさせ、他人との距離の取り方を磨かせる必要があるでしょう。自分の意見をどのように表現すれば相手にわかってもらえるのかを考えたり、他者の意見の中に自分が見落としていた真理がないか確認したり、議論を戦わせて一緒に協力した方がよいのか、それとも、一緒にやるのは無理だから距離を取った方がよいのかといったことについて考える必要があるでしょう。

そのためには、文法や論理の他に、対話によってまだ見えていない真理へと接近していくディアレクティケー(弁証論)と、相手を説得するための技法であるレトリケー(修辞学、弁論術)を学ぶ必要があるでしょう。これらはすべて言語にかかわる理論です。言語活動は、言語とそれが表現する意味について言語を通じて接近しようとする活動です。その中で、言語化できない何かに突き当たることもあるでしょう。それを「わからないこと」として保存すること、すなわち、なかったものとするのではなく、謎として保存することも学ばなければなりません。

今の初等・中等教育は、対象の違いによって教科が整備されていますが、方法に意識を向けさせるものになっていないと思います。アプローチの違いによって見えていたものが見えなくなったり、見えなかったものが見えるようになったりすることも学ばせる必要があると思います。

C8

逆に、言語で表現された情報について、自分勝手な意味づけをしているケースもあるように思います。そういう意味づけによって形成されるその人の思いは、普段は表面化しないですが、場合によっては強い思いとして行動の動機や理由になる潜在力を持つことになりますので、何かの弾みに独特の行動として表出される可能性があるのではないでしょうか。

C9

①これらの複数の要素を概念的ないし言語的にどのように区別するのかということも大事ですが、②その人の意見の内容のどの部分がどの要素の影響と考えるのかが重要であり、これを(定量的に)規定するのはかなり困難だと拝察します。(ここで仰っている定義次第というのは①の話だと受け取りました。)素人考えですので、とんちんかんなことを言っているようでしたら無視してください。

哲学では、判断、決定、承認、選択、分析、真理、基準[規準]、規範、言語(行為)といった概念が重要になってきます。これらを機能主義的に考えるのか、ある程度の内容を持つもの(観念的か、存在論的か、自然的かを問わず)と考えるかによって立場が変わってきます。また、哲学が概念分析ないし言語分析を遂行する中で掲げる「意味」への問いは、思惟そのものの意義と目的を明示的ではない仕方で指し示すことにより、思惟そのものがいまだ十分には自覚していない自己の本質を明らかにするという課題を思惟に与えるという側面も持つのだと僕は考えます。ですから、(一部の)哲学においては、意識が問題になるところでは同時に自己意識も問題になります。

C10

哲学においては、自己が問題になることが多いです(もちろん、そうでない客観主義的な立場もあります)。他なる理性的存在者との関係のなかでどのようにして自己形成が行われるのかを解明することは、哲学の中心課題の一つです。この関係には超越的で絶対的なもの(神)との関係も含まれるとする立場もあります。過去の人になりますが、デカルトなどもそうです。「科学的方法」に傾注する人はこういう得体の知れないものは切り捨てようとしていますが…。

C11

先入観から自由になるためにも、こうした分析はとても大切だと思います。

C12

哲学的アプローチは本当に多岐にわたっていますので、なかなかこうというものを示すことができません。こちらの知見が狭すぎるというのもあります。

脳科学のアプローチに近いところで研究されている方でビッグネームの一人は東大の信原幸弘氏です。若手ですぐれた人がたくさん出てきていると思いますが、残念ながらフォローできていません。すいません。

脳科学的なアプローチに対してアンチの視点で書かれているものとしましては、手軽なもので、次のものがあります。

河野哲也『暴走する脳科学――哲学・倫理学からの批判的検討』光文社(光文社新書)、2008年。

彼は慶應出身で今は立教で教えている人で、現象学から入って手広く仕事をしています。多くは似非脳科学批判に終始しているかもしれませんが、哲学からのアンチの視点が愚かさも含めてわかるかもしれません。kindleで無料で読めますので、気が向いたら読んでみてください。

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