第二回も終了し、残すところ一回となりました。
今回は『告白』第7~9巻を読み、アウグスティヌスの解釈経験を中心に、ロラン・バルトやガダマーにも触れつつ、「言葉と意味」「テクストへの愛」といった議論が展開しました。
解釈経験は、私たちの日常でも行われていることでしょう。
自分自身の私的な経験、思いや感情を言葉にして語ることは、それをパブリックにすることです。
そうして語られた言葉は、ある種中立的で、語られないものを捨象することでもあります。
しかし同時に、言葉には他者との共感可能性があるというお話から始まりました。
特にアウグスティヌスの『告白』は、一般的な哲学書がアカデミックな文体で書かれているのとは異なり、個人的な体験を自己解釈していき、一人称で物語る文体で書かれています。
概念などを主語にした三人称的な書き方の多いだろう哲学書としては、珍しいことなのかもしれません。
さて解釈経験とは、例えば文献を読み比較し(『告白』第7巻のように)、「わかった!」という経験を経て、さらに意味を咀嚼し深めていくことだと言えそうです。
でも、いったい「深い」理解とは何なのでしょうか。
語られた言葉、テクスト(ロラン・バルトの概念)を解釈していくとき、私たちは常に自分のコンテクストで理解してしまいます。
ここには思い込みや偏見といった、解釈の暴力性とでもいうようなネガティブな側面があるでしょう。
解釈の地平融合(ガダマーの概念)は容易にできることではないのかもしれません。
しかしアウグスティヌスは、解釈経験をすすめていきます。
そこにある彼の「テクストへの愛」とでも言うべき考え方が、ストア派とも親しいというお話もありました。
聖書自体はたしかにテクストにすぎません。しかしその書かれていることの意味を、アウグスティヌスは通り一遍の解釈ですまそうとはしていないようです。
さらにアウグスティヌスは、日常言語(『告白』第8巻)でさえ無意味とみなさず、むしろこれにさえ神を知る秘密があると考えていたようです。(実際にむしろ回心のきっかけとなっていました)
いつでも言葉を与えた存在(聖書の場合は神でしょうか)はいます。そして書かれた言葉をどのように理解するかはその人の責任であり、愛すべき相手の書いた文章であればきっと誤解したくはないでしょう。
先生は「テクストへの愛」を恋人の書いたものとそれを読もうとする気持ちになぞらえてご説明してくださり、しっくりくるものだったのではないでしょうか。
7巻の見る経験、8巻の聞く経験、9巻の触れる経験、これらは類似した自己解釈でありながら、同じようで同じでない、それ自体自己を巡って深まっていく解釈の進み行きそのものなのかもしれません。
来る最終回では、第10巻、11巻を読んでいきます。
ここでは、アウグスティヌスがなぜ『告白』を書いたのか。なぜ公にするのかといった告白の意味が語られています。
さらに「記憶論」、「時間論」についても考えていきます。
特に10巻2,3章の告白の意味、7章以降の記憶論、11巻14章の時間論をお読みいただくと、一層お楽しみいただけると思います。
前提知識は必要ありません。わからないことはどんどん質問し、考えたことはどんどん発表していきましょう。
参加者様からも、
講師の参加者の質問に対する答えがとても真摯で具体的でわかりやすかった。自分の疑問のその先を考えるきっかけにもなります。
といったご意見をいただいております。
もちろん第一回、第二回に参加されなかったかたも、ぜひぜひご参加ください!
(伊勢)