「善と悪の定義:人間の行為と自由意志と価値体系」
ユダヤ教・キリスト教における「善と悪」は、ゾロアスター教・マニ教などにみられる「善悪二元論」に対立するものとして生まれました。
「善悪二元論」では、この世の在り方が「善の神」「悪の神」のバランスによって決定されています。善の神が優勢になればこの世は善に傾き、悪の神が優勢になればこの世は悪に傾くのです。
これに対してユダヤ教(・キリスト教)は一神教を掲げました。
ユダヤ教において神は唯一「善の神」だけであり、その神が世界を創造したのです。
神はこの世界を「良(善)きもの」として創造され、世界をよりよく発展させるための神の協力者として、神に似せた高度な精神を持つ「人間」を創造されました。
しかしここで一つの疑問が生じます。
神は万物を良いものとして創造されたにもかかわらず、なぜこの世には悪いことが起こるのでしょうか。そしてなぜ人間は悪を為すことがあるのでしょうか。
この問題について、ギリシャ哲学の思想の助けを借りて考えてみましょう。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「善」の定義には、前提となる理解があることを見出しました。その前提とは、
「万物は存在の目的(テロス・本来性)を持っている」ということです。
そして、この前提のもとに、おり、「その本来性を実現する働きが『善』である」と述べています。「悪」の定義を明らかにしたのはアウグスティヌスですが、「本来性」を前提としたアリストテレスの善の定義とアウグスティヌスの悪の定義を合わせて考えると、「悪」とは「万物の本来性を妨げる行為」であると考えることができます。
この世界には、様々な存在物があり、それぞれの本来性を持っています。しかし、その本来性は、同じ方向を向いているわけではありません。そのため、存在物がそれぞれの本来性に向かって進むと、必ず衝突が生じます。
この対立によって生じるのが「自然悪」です。
本来性の対立は、また、個々の存在物の中でも起こっています。
例えば、人間の存在は、物理的レベル、化学的レベル、生物的レベル、動物的レベル、精神的レベルというように、いくつもの存在の階層が積み重なって構成されています。各レベルは、そのレベル独自の本来性を持っているため、他のレベルの本来性と対立を生じます。例えば、髪は生物的レベルにおいて、伸びることが本来的動きです。しかし、動物的レベルの本来性は、自由に動き回れることを求めます。「髪を切る」という行為は、髪が長いと動きにくいの、動きやすくするために行う、――つまり、動物的レベルの本来性を優先するために、生物的レベルの本来性を阻害する――ものです。
幾多の存在物、そして、存在物それぞれに内在する様々な本来性がかち合っているために、人間は「善なる行為」だけを為すことはできません。善には必ず悪が伴うこととなります。
そして、存在物が多種多様であるため、様々な種類の善、様々の種類の悪が生じます。そうなると、どの善をより優先し、どの悪をより強く退けるかという選択の問題が生じます。
この問題は人生において常に生じるものであり、私たちは常にこの問題について考えなければなりません。
さらに、私たちはこの課題に取り組むうえで、「今」だけでなくより広く、より長期的な視野から善悪を判断する必要があります。
しかし人には「今、ここで、自分だけのための善を選択したい」という欲求があります。
これが、キリスト教が「原罪」という概念で伝えようとすることです。
人は、「原罪」という、自分中心にものを考えたい傾向を持っているため、神に与えられた非常に高い能力を持つにもかかわらず、自由意思に基づく、その能力の使い方・選択の仕方によっては、人間にしかできない悪をなしうるのです。
では、なぜ、神は、それを悪用することによってとんでもない悪を犯す危険をはらむ自由意志を、人間に与えたのかという疑問が生じます。それは、人間を、自由意志を持たないロボットにするよりも、人間に自由意志を与えた方が、「より良いもの」を生み出す可能性が高まるからです。
人間の知性は高度で特殊であり、その知性を自由に使うことができます。しかし、その自由は、人間にしかできない大きな悪を起こす危険性を、絶えず、はらんでいること、その意味で、人間は自由を慎重に使用する責任を負っていることを「最良のものの腐敗は最悪である」ということわざと共に心にとめておかなければなりません。
さて、次回は6月26日「3つの自然愛:ストルゲー、エロース、フィリア」についてお話ししていただきます。
次回もお楽しみに!