『啓蒙とは何か』読書会、勝西先生ありがとうございました!
カントと啓蒙思想の概説に始まり、会の後半では「自分で考える」ということを巡って議論が白熱しました。
カントは自分の理性を使うことができない状態のことを未成年状態と呼んでいます。しかし能力がないから未成年状態なのではなく、決意や勇気が持てないから「自分で招いた」未成年状態に留まるとも言っています。
参加された皆さんの直面する現実、子どもはどうなのか、日本の社会はどうなのか、学校ではどうなのか、といったことに照らしながら、具体的に「自分で考える」ということについて思考を巡らせることができたように思います。
特に今回は、「コミュニケーション」と「自分で考える」ことの関係に話が展開していました。勝西先生によれば、「カントは自分の頭で考えるということをコミュニュケーションをベースに考えている。単なる受け売りはコミュニュケーション的ではない。自分の考えを相手に伝えるなかで試行錯誤しながら説明の仕方を変化させたり考えを変えたりすることがある。自分が発信して相手の反応を得ることで相互に気づきが生まれてくる。他者とのコミュニュケーションのなかで自分の考えが培われていくというのが啓蒙の可能性の一つとしてあるのではないか。」ということです。これは「自分で考える」ための重要な一側面のように思われます。
とはいえディスカッションが白熱した反面、予定の半分ほどしか進むことができませんでした…もちろんその分関心の高さが伺えましたので、ぜひ第2回も開催したいところです!
また、参加者様よりリアクションが寄せられ、それに関して勝西先生よりコメントをいただきました。併せてお読みいただけると理解が深まるのではないでしょうか。(また、リアクションの内容とそれに対する個別の回答も次のページに掲載しております)
(伊勢)
- コメント みなさんへ
立派なリアクションをありがとうございます。最初にお話しさせていただいたことも多少なりとも刺激になっていたのだとしたら、ありがたいです。
今回は、自分で考えることとコミュニケーションの関係に焦点が当たりました。リアクションで指摘されているように、日常のコミュニケーションは、「だよね」と言って共感の雰囲気を醸し出す仲良しごっこの場か、ストレス発散の場になりがちです。それはそれで大切なことでもあるのですが、ともすれば、意見の違う者どうしが合意形成をして絆を深めるというコミュニケーションのもう一つの側面が置き去りにされてしまい、こちらは議論の場での力関係や、議論を無視した力関係で決着がついてしまうことになってしまっています。お互いの意見が持っている部分的な合理性(「確かにそういう面もあるよね」)を、対立したままに終わらせることなく、こうした意見を総合する視点や落とし所を探るための「方法」とその教育が民主的な社会においては不可欠ですね。
もう一つのコミュニケーションを活性化させるためにも、「自分で考える」とはどういうことか考えることは重要になると思います。ヒトの認知機能の解明を、脳を中心としたメカニズムの解明によって果たそうとする脳科学のアプローチに対して、哲学は、何が正しいことか、どうあるべきかといった理念的ものと思考とのかかわりを問題にします。そして、自分の気付いていない真理に辿り着いている他者や、絶対的な真理とそれを知るものの存在(神の存在)といったものまで排除せずに考えます。またの機会がいただければ、こうしたことについても考えてみたいと思います。脳科学的なアプローチに対して哲学の側からアンチの視点で書かれているものとしましては、手軽なもので、次のものがあります。
河野哲也『暴走する脳科学――哲学・倫理学からの批判的検討』光文社(光文社新書)、2008年。
多くは脳科学もどきに対する批判に終始しているかもしれませんが、哲学からのアンチの視点が愚かさも含めてわかるかもしれません。Amazonのkindleで無料で読めますので、気が向いたら読んでみてください。
みなさん、本当にありがとうございました。